我為すことことごとくこれ蛇足也 其の伍

「ちいさい秋みつけた」のは‥‥誰ですか? 中編

この歌『ちいさい秋みつけた』が私にとって、今も『陰鬱(いんうつ)』に聞こえてしまう理由は、一体どうしてなのでしょう?
ここからは私独自の解釈で、分析を試みてみようと思います。
もう一度歌詞を、繰り返しの部分を省いて、拾い出してみます。
一番
めかくし鬼さん 手のなる方へ
すましたお耳に かすかにしみた
呼んでる口笛 もずの声
二番
お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風
三番
むかしのむかしの 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色

まず分かるのは、どうやら子供たちが『めかくし鬼ごっこ』に興じているようです。当然場所は屋外で、彼らの手をたたく音や歓声が、辺りに響き渡っています。
ところで『ちいさい秋みつけた 誰かさん』は、彼らの中にいる一人なのでしょうか?
いいえ、どうやらそれは違います。子供たちの手をたたく音や歓声を、『すましたお耳』で聞いている人物がいます。『ちいさい秋みつけた 誰かさん』、言わばこの景色の『観察者』であるわけですが、この人物は明らかに別の場所にいて、手をたたく音や歓声に混ざって『口笛』みたいに響いて来た『もずの声』も、外からの音として一緒に聞いています。つまり『観察者』は、『くもりのガラス』の嵌まった窓がある、『北向き』の『お部屋』の中にいるのです。
建物の部屋の中にいて、『わずかなすきから 秋に風』と、深まっていく秋の気配をひとつひとつ、屋内で感じ取っているわけです。

ここまで辿ってみて、気になるのがこの『観察者』の様子です。『うつろな目の色 とかしたミルク』という一節から、どんなことが想像できるでしょうか?

私は、『観察者』のいる部屋は、病院か療養施設の一室ではないかと考えました。
病気か怪我での療養中の『観察者』は、外へ出ることができず(あるいは動くことができず)、『お部屋』で日々、鬱々とした時を過ごしていたのではないかと‥‥‥‥

ここからは、この解釈からの私の連想です。

『観察者』が療養中の施設の建物は、街外れにあります。その広い敷地の北側は自然豊かな林で、『観察者』の病室はいつも日陰ながら、磨りガラスの窓を開ければ、その林の風景を独り占めできました。使われなくなって久しい洋風建築の別館もこの林の中にあって、窓際に立つはぜの木越しに覗く三角屋根の‥そのてっぺんにある錆びた風見鶏が、窓を開け放っている時の必ずと言っていいほどの『観察者』の、視線の置き場所でした‥‥‥‥‥

後編へ続く

我為すことことごとくこれ蛇足也 其の四

「ちいさい秋みつけた」のは‥‥誰ですか? 前編

誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ
すましたお耳に かすかにしみた
呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス
うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
むかしのむかしの風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた


私は度々‥物語の中で、歌の歌詞を引用します。
引用しているのは大体が童謡や唱歌なのですが、そのそれぞれの歌の歌詞にインスピレーションを掻き立てられ、イメージが豊かに広がっていくことがよくあるからです。

今回、冒頭に記した歌は、言わずと知れた童謡『ちいさい秋見つけた』の三番までの歌詞ですが、この歌も私自身独特の感想を持っていて、いつか使わせていただこうと考えていたものの一つでした。
作詞はサトウハチロー、作曲は中田喜直。何気ない小さな秋の気配をひとつ‥ふたつと描写していく、どこか物悲しい初秋の歌なのです。

私は子供の頃、この歌をテレビ(おそらく『みんなのうた』)で見聞きしたり、小学校の音楽の時間に歌った覚えがありますが、そうやって耳にする度に感じていたのは、どことなく醸し出されてくる『陰鬱(いんうつ)さ』でした。当時子供だった私はもしかしたら、全てに解放的だった夏休みが終わりを告げ、とうとう始ってしまった二学期への落胆の気持ちをこの曲に当てこすって、そう感じていたのかも知れません。
ただ、大人になってから、大人の感性で改めてこの歌詞をなぞってみても、子供の頃に感じていた『陰鬱』な印象は消えず、むしろやはりそうだったと再認識してしまったのです。

中編へ続く