悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (210)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その九十五

「アラタ!? 大丈夫なのか??」

左腕(ひだりうで)が切断された状態で大量の血を流している人間に向かって、「大丈夫なのか?」と言う問いかけもおかしなものだが、ぼくはアラタのただならぬ様子に仰天してしまって、思わず仕切り壁の曲がり角から身を乗り出しそして躍(おど)り出て、気がつけば彼にそんな言葉を投げ掛けていた。

「アラタ?くん?? なの!?」高木セナもやはり驚きながら曲がり角からこちらに姿を現し、ぼくの背後から声を掛けていた。そして、瞬(まばた)きを三回して、アラタの全身を染めあげている血の凄惨さに改めて目を奪われ、「ひっ」と息を呑んでぼくの背中にしがみついてきた。
巨大迷路のとある一本の通路、ぼくと高木セナは2メートルの距離をおいて、ただならぬ様相のアラタと対面する形となったのだ。

「アラ‥タ?‥」
アラタの視線は、明らかにぼく達二人を捉(とら)えていた。しかし彼は何の反応も示さなかった。ただ、力なく、ゆらゆら揺れる様に立っている。右手に、自分の体から離れてしまった‥左腕(ひだりうで)を握ったままで‥‥‥‥
「アラ‥タ‥‥」ぼくはもう一度呼びかけてみる。しかし、やはり反応がないのは同じだった。
アラタの顔にはすっかり色がなかった。目は虚ろに澱(よど)んでいて、口は締(しま)りを失ってだらしなく開いている。タキとつるんで騒いでいる時の快活で抜け目のなさそうなあの表情は、今のアラタからは微塵も窺(うかが)えない。
「早く! 早く手当しないと! あんなんじゃ アラタくん死んじゃうよう!」高木セナが震える声で、ぼくの背中に訴えた。ぼくもそう思ったし、もう手遅れかも知れないとも思った。

「アラタ‥ とにかくもう動かない方がいい。君は大怪我をしてるじゃないか‥」ぼくは、アラタにこれ以上動き回って出血させない様、その場で体を休めることを勧めた。

「‥ ‥ ‥‥・・・ ・・‥ ‥」
その時、僅(わず)かにだが、アラタの表情に変化が生じた気がした。口元が微妙に歪(ゆが)み、まるで笑ったみたいに見えたのだ。
と、次の瞬間、アラタは彼の左側にある仕切り壁に向き直り、自らの左腕を握りしめた右手を大きく振りかざした。

トン‥‥ トン‥ トン‥
「え?!」 ぼくと高木セナは驚き、目の前のアラタの突然の『行動』に、目を見張った。
彼が始めたのは‥‥、右手に握っている左腕のその断面の側(がわ)を壁面に向け、叩(たた)く様にして壁のあちこちに押し付けていったのだ。

そうして仕切り壁には‥ 彼の左腕の断面から染み出し付着していた真っ赤な血の『歪(いびつ)な丸い印(しるし)』が、 ひとつ‥ ふたつ‥ みっつと‥‥ しるされていった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (209)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その九十四

カサ‥ コソッ‥カサ‥ トッ‥トッ‥トン‥‥
迷路の仕切り壁一枚隔てて、確かに人が動いている気配がする。
どうやら‥壁に手を這(は)わせたり突くかしながら、ゆっくりと移動しているらしい。そんな、微(かす)かな、壁との摩擦音が‥、伝わってくる。

ぼくと高木セナは進行方向右手側の仕切り壁に視線を向けたまま、その場で一切の動きを止め、耳を欹(そばだ)てていた。
トッ‥ カサ‥ トン‥トン‥ トッ‥‥

壁の向こう側にいるのは一人で、それに決して上背(うわぜい)のある人物ではなさそうだ。おそらく、子供がひとり‥‥。伝わってくる音を感じ取りながら、そう思った。
ぼくは高木セナに目配(めくば)せし、前に進む意思表示をした。彼女が頷(うなず)く。以心伝心(いしんでんしん)、ぼく達は息を殺してゆっくりと、そして素早く、壁伝いに前進を再開した。
通路の次の分岐(ぶんき)を右に曲がる。それで『人の気配がしている場所』の通路にすぐにつながるわけではなかった。そのまま通路を今度は左に曲がり、次にまた右に曲がった。ぼくは『人の気配がしている場所』を意識しながら、頭の中に予想できる何通りかの『迷路の俯瞰(ふかん)図』を描いていた。右に左にやや遠回りのかたちだが、着実に目当てのその場所へと近づいていった。
「ぼく達より先にここに入った内の一人が、迷って彷徨(さまよ)ってるのだとしたら‥‥」ぼくは声を潜(ひそ)めて高木セナに言った。「出会えればその子から、何か役に立つ情報を聴き出せるかも知れない」
そして、「次の角を右に曲がったらいよいよだ」と伝えて黙った。高木セナはコクリと大きく頷いて見せて、体全体を緊張させて身構えた。

ぼく達は当然、角の手前で立ち止まった。
「‥‥‥‥‥‥」ぼくは高木セナを背後にまわし、そーっと自分の首だけを伸ばして、角の向こう側を覗き込む。

えっ?
その場所にいたのは、まったくの予想に反した人物だった。
「アラタ‥ か?!」

立っていたのは‥、葉子先生の指示を受け逃げようとしていた林の中の道の途中で、タキや他の数人と共に何処(いずこ)ともなく消え失せたのだとモリオから聞かされていた、『アラタ』だった。
しかし次の瞬間、ぼくが驚いて目を見張ったのは、出会った人物がアラタだったからだけではなかった。アラタが右手に『人の腕』を握っていたからである。そしてどうやらその腕は『アラタ自身の左腕』であるらしく、彼の体の本来左腕が伸びているべき場所は、千切れたか捥(も)ぎ取られたみたいに、中ほどからふっつりと途切れていた。

当然アラタの体のあちらこちらは‥‥ 彼自身の流してきた血と幾千の飛沫(ひまつ)で真っ赤に‥ あるいはどす黒く染まっていた。

次回へ続く