悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (212)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その九十七

「アラタ!!」

ぼくは、大声を上げていた。
ぼくと高木セナの横を通り過ぎ、迷路の仕切り壁に向かって今も『切断された自分の左腕の断面を押し付けていく作業』を続けているアラタを、振り向かせたかったし、本来の彼へと正気付かせたかったのだ。

アラタが『作業』の手を止めた。しかし動かなくなっただけで、振り向かず、こちらに背を向けたままだった。

「聞かせてくれ、アラタ! 君は一体、何をしている?」ぼくはストレートに問い質した。
少し間を置いてみたが、アラタからの返事はなかった。
「このままだと君は‥‥ 間違いなく死んでしまうぞ‥‥」正気に返ってくれと願いながら、そう付け加えた。
しかしやはり、長く待ってみても彼からの反応は無かった。

その時である。さっきからずっと隠れる様にぼくの後ろについていた高木セナの、消え入りそうな独り言が聞こえてきた。
「え?‥」ぼくは振り向く。いつの間にか高木セナはアラタから目線を逸らし、首をやや上方に向け、仕切り壁の割と高い部分に疎(まば)らにしるされた、三つほどの『歪(いびつ)な赤い丸』を眺めていた。
「今‥ 何て言ったんだい?」ぼくは彼女が発した言葉を、もう一度聞かずにはいられなかった。
高木セナは、キョトンとした目でしばらくぼくの顔を見返していたが、「‥‥あの辺を見てたらつい、そんな風に思ったの。‥‥まるで、赤い花みたい‥‥だって」と言った。

「赤い花‥みたい??」ぼくは、その言葉を繰り返した。そして目を細め、彼女が眺めていた壁の同じ場所を見遣(や)り、すぐさま理解した。
迷路の通路には本来屋根が無い。しかしここは廃墟となって久しく、右と左の仕切り壁と仕切り壁の上をところどころツタが渡っていて、屋根の様に茂っていた。そのツタは、仕切り壁の内側にも当然垂れ下がって伸びて来ていて、壁の高い部分を中心に葉を茂らせへばりついていた。つまり、高い部分にしるされた幾つかの赤い丸は、本物の植物であるツタの葉と共に同じ視野に入り、高木セナに『まるで赤い花みたい』という単純な連想を引き起こさせたのだ。

「確かに‥赤い花‥‥‥ いや‥」
よくよく見てみると、血でしるされた『歪な赤い丸』は決して簡単なものでは無かった。『人の腕の断面』を押し付けたことを感じさせる、例えば、『中央に骨があり、肉と筋(すじ)がその骨をぐるりと巻いていて、一番外側に皮がある』といった具合に『多重的』なディテールを持ち、『スタンプのインク』となった『人の血液』はまだ生乾きで、奇妙で独特な艶(つや)と斑(むら)があった。

「いや‥ まるで赤い薔薇(ばら)の花 じゃないか‥‥‥」
ぼくは、そんなことを呟(つぶや)いていた。

次回へ続く

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