第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その七十九
ぼくは気が急(せ)いていた。高木セナの手を引いていながらも、可能な限り速く走ろうとした。
駐車場の出口に到達し、そこからやや傾斜になって下り始める『舗装道路』に入った。
その傾斜の途中、高木セナの足が縺(もつ)れ、危うく転倒しそうになった。ぼくは「あっ」と叫んで間一髪、体全体を使って支えることで何とか彼女の転倒を阻止したが、その時、それまで掴んで引いていた彼女の右腕を包むパーカーの長袖が捲(めく)れ上がり、貼ってあった大きな救急絆創膏が覗いた。
「あっ ごめん‥‥」
ぼくはすっかり忘れていた。高木セナが、右腕に怪我をしていたことを。
遠足の目的地、芝生広場に間もなく到着しようという林の中の道で、彼女は右腕の外側に切り傷を負い血を流していた。その場で葉子先生の応急処置を受けたが、それまでたくし上げていた袖を下ろして、手当のあとを隠していたのだ。
「ううんん、だいじょうぶ。もともと大した傷じゃあないから。ほとんど痛みもないし‥‥」そう言って高木セナは、支えていたぼくの体から身を起こし、離れた。「‥‥‥‥‥‥‥‥」そして彼女はそのまま、押し黙ってしまった。
慌てたぼくのせいで、危うく高木セナに怪我をさせるところだった。おまけにすでに傷を負っている右手右腕を、無神経にも強く握って引っ張っていたのだ。彼女を守ると心に決めていながら、何という情けなさだ。ぼくはその反省から、何の言葉も出て来なかった。
二人の間にほんのしばらく、沈黙の時間が流れた。
「行って!ヒカリくん! 急いでるんでしょ?」沈黙を破ったのは高木セナだった。「わたしは足手まといになるから、置いてっていい。自分の安全くらい、自分でどうにかするよ」
「どうにかするって、そんなこと言わないでくれ。ぼくは君を守りたい。守らなくちゃいけないんだ!」
「‥ヒ ヒカリくん‥‥‥」それまでぼくの視線から目を伏せていた高木セナが、顔をあげて真っすぐぼくを見た。彼女の両目に、特別な感情が宿るのがわかった。しかし、それは一瞬のことだったようだ。彼女はふたたび目を伏せてしまい、小声でこんなことを言った。
「さっき、急に走り出した時からのヒカリくん‥‥ 何だかとてもこわかった。わたしを引っぱって走ってる時も、わけがわからないこと‥小さく怒鳴るみたいに言ってて‥‥‥ 気味が悪かった」
「え?何だって?? ぼくが走りながら、何か怒鳴ってたって??!」ぼくは驚いていた。正直まったく、身に覚えのないことだったからだ。「ほ‥ 本当なのかい?」
高木セナがぼくを上目遣いに睨(にら)みつけた後、首を縦に大きく動かした。
「‥ぼくはいったい‥‥ どんなことを‥怒鳴ってたんだい?」ぼくはかなりショックを受けていたが、聞き出さずにはいられなかった。
高木セナはぼくの質問に答え、思い出しながら、一つ一つの意味を手探りでもするみたいに、ぼそりぼそりと、口に出していった。
「どこへ‥ つれていく ‥‥ツモリだ。 ムスメに‥‥ ムスメのカラダに‥メスはいれさせない。 キリキザムような‥マネは‥‥ ゼッタイ ゼッタイに‥‥ ゼッタイにさせない‥‥‥‥」
次回へ続く