第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十八
背中に走る激痛をこらえ、渾身の力で投じられた葉子先生の携帯電話は、高木セナの手を引いて逃げていた草口ミワの数歩前の芝生の上にバサッと鈍い音を立てて落ちて転がった。草口ミワは一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、先生の意思をしっかりと受け取る様に、塞(ふさ)がっていなかった右手でそれを拾い上げた。
「私が携帯電話を手放した途端、背中を切りつけていた『ヒトデナシ』の手が止まったのを感じた」と葉子先生は回想する。明らかに『ヒトデナシ』は、携帯電話の行方を見ていたのよ‥‥」
草口ミワは逃げる足を止めることはなかったが、高木セナを引いていた手を離し、両手で携帯電話を操作し始めた。葉子先生はその様子を確認している。しかし、背後に立っていた『ヒトデナシ』も同じく、草口ミワのそんな一挙手一投足をしっかりと観察していたのは間違いない。
次の瞬間『ヒトデナシ』が動いた。逃げ遅れた子を庇(かば)って地べたにうずくまっていた葉子先生の横を掠(かす)めて、『ヒトデナシ』の足が彼女の前方へと踏み出していったのだ。
「しまった!」この時になって葉子先生は悟った。そして後悔した。「苦し紛れに自分が携帯電話を託したせいで、今度は草口さんたちが『標的』となってしまったのだ」と。
果たして‥成り行きはその通りになった。
葉子先生の目の前に出ていた『ヒトデナシ』の両足の輪郭が一瞬ぼやけた様に揺らいだかと思うと、まるで一陣の風が吹き去る凄(すさ)まじさで、草口ミワと高木セナ目掛けて遠ざかって行った。
葉子先生は目を見張った。そして彼女は叫んだ。「逃げて!二人とも逃げてぇぇ!」
その叫び声に草口ミワは足を止める。すでに通話中だったのだろうか、何ごとかを懸命に伝えようとしていた口の動きが止まり、携帯電話から顔を上げた。
「逃げて!逃げて!携帯電話を捨てて!今すぐ捨てなさい!」葉子先生は声を限りに叫ぶ。
しかし、時すでに遅く、禍々(まがまが)しき陰のごとき『ヒトデナシ』の輪郭が、草口ミワのすぐ前まで到達していた。草口ミワの表情が恐怖で凍りつのが分かった。追随(ついずい)していた高木セナがその場に座り込んでしまうのが見えた。
葉子先生はこの時、自分の軽率な行動を後悔するどころか、呪ったそうだ。
「まさにその時だった。私の背後から、芝草を蹴散らしながら誰かが駆けて来たの」葉子先生は小さい声ながらも、幾分興奮気味に続けた。「風太郎先生だったのよ」
取り押さえようと組みついていた『ヒトデナシ』に一旦(いったん)は振り飛ばされ、駐車場のアスファルトに体を強(したた)か打ちつけた風太郎先生だったが、身を立て直して全速力で駆けて来たのだ。
恐怖のあまり、携帯電話を手にしたまま硬直して動けなくなった草口ミワと、座り込んでしまっている高木セナの頭上に、『ヒトデナシ』が刃物(のようなもの)をかざした瞬間だった。風太郎先生は3メートル以上手前からジャンプして、『ヒトデナシ』の背後にしがみついた。
次回へ続く