悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (8)

序〇糞(ふん) その八
丘の頂上で、女が歌っていた。

レース飾りのついた黒いワンピースのドレスを着て、ウエーブのかかった長い髪を風にさらしながら歌う彼女は、年齢は知れないがしっかりとした成人女性であった。

女が歌っている理由が理解できたのは、傍に停めてあった車椅子の取っ手に手を掛け、ゆっくりと押し始めたからである。
車椅子には、ローブをすっぽりと被ってうなだれた小柄な人物が乗っていて、女は恐らくこの同伴者の為に歌を披露していたのだ。

もう少し近づいて見ようと思い、男は頂上へ通じる最後の坂道へ向かう。登り始める場所では、一旦彼女たちの姿が視界から消えた。

「‥‥ねえさん‥‥‥」
思わぬ言葉が口から漏れた。
「生きていたのか‥姉さん‥‥」
知らない人格が支配しているのを感じた。頭の中を身に覚えのない記憶の断片が飛び交っている。
しかしながら、客観的にそれらを観察している自分の人格も、揺るぎ無く確かに存在していた。

この丘は いつか来た丘
ああ そうだよ

あと十数メートルで登り切れるというところで、頂上を仰ぎ見る男の視界に、車椅子とそれを押す女がゆっくりと現れた。どうやら男に気がついて、女の方から近づいて来たらしい。

女は、歌うことを中断すること無く、男を見下ろした。
その視線を受け、男の足が止まった。竦(すく)んだのだ。

女の双眸(そうぼう)は、すべてを見通したかのような輝きで世界を萎縮させ、或いはすべてを拒絶するような闇の色で、光をことごとく地に叩き落としていた。

次回へ続く