ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (47)

最終話「夕暮れ」 その七
太平洋戦争、終戦、東西冷戦、朝鮮戦争、安保闘争、ベトナム戦争、国際反戦デー、大学紛争、そして三島事件・・・・・・

昭和という時代の真ん中辺りで生まれ、やがて物心がつき、幼年期を経て少年期を終えるまでに私は、日常生活の中や漏れ聞こえてくる社会の情勢から、数限りない不安や恐れ、疑問を抱き、心の内に溜め込んでいました。
もっともそういう事が、人として成長していく上での糧となっていたのだろうとは思いますが、知識と理解力の範ちゅうを超える社会の出来事などは、「安心」を手に入れて忘れ去るわけにもいかず、結果その後の生活に何らかの影響を及ぼしていきます。
「何が解らず、何を知りたいのか」がまだ判らなかったのです。少しでも取っ掛かりのようなものを見つけようとしていたのでしょう、興味の対象が事あるごとに刻々変化していった気がします。
大人が交わしている会話に、聞き耳を立てる事も多くなりました。
プラモデルは、荒唐無稽なものより、よりリアルなキットを求めるようになって、付属の解説書を何度も読み返しました。

やっていた事はおおよそ、情報収集。
データを出来るだけ貯め込んで、成長にともなう「情報処理能力の高度化」を待っている・・・・・・。
しかし、「高度化」はそう容易くなく、中学生、高校生になっても、頭の中は混沌とした状態のままでした。

ただ、何を知りたかったのかが分かってきていました。
理解したくて、興味もあって、いろんな本を読むようになりました。
それが最善のアプローチの方法でした。

戦争はなぜ起きるのか?

「安保闘争」や「大学紛争」とは何だったのか?
そもそも「安保」とは何ぞや?

「三島由紀夫」とは、どういう人物だったのか?・・・・・・・

次回へ続く

 

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (46)

最終話「夕暮れ」 その六
三島氏の膨大な著作の中に、「憂国」と言う短編小説と、「行動学入門」と言うエッセイがあります。
この二冊は、「三島氏の進んで行った道」が一体何だったのか、探りあてて辿ってみる時の、いくつか存在するであろう「道標」の様なものだと思っています。
さらに、三島氏が演者(役者)の一面を持っていたことも、道標のひとつであるかもしれません。

決起を呼びかける演説を終え、最後の演壇となったバルコニーから総監室に戻った三島氏は、すべては予定された行動だったのでしょうか、割腹自決します。
正座をして短刀を構える三島氏。同行した盾の会のメンバーのM氏が、関ノ孫六をやはり構えて後ろに立ち、介錯を務める・・そんな様子がありありと目に浮かぶのは、私達が時代劇などで幾度となく型にはまった切腹シーンを観てきたからでしょうが、後に知った細かな情報では、M氏の介錯がなかなか上手くいかず、最後のひと太刀は他のメンバーの手によるものだったそうです。何とも残酷で痛々しい、それが紛れもない現実だった様です。三島氏が絶命し、M氏もすぐに同じ作法で後を追います。
残された盾の会の三名は、ふたりの遺体を整え、切り離された首を置きます。そして総監を拘束から解き、建物を取り囲んでいた警察に総監を伴って投降するのです。事態は、驚くべき結末の波紋を広げながら終息します。

報道で事件を知り現場に駆け付けた、三島氏と親交のあった川端康成氏は、報道陣に囲まれ、切実な言葉を残しています。

「もったいない死に方をしたものです。」

事件の翌日の朝に話を戻します・・・・
学校に到着し教室に入った私は、誰かに問いかけたい衝動を抑える事ができませんでした。
ランドセルを机にかけると、傍にいたクラスメイト(誰だか忘れた)に唐突に話しかけます。
「新聞見たか?」
「はあ??」
「新聞の写真見たか?」
「何や、いったい・・・」
私はその時、他の家がA新聞を購読しているとは限らないと言う事や、他社の新聞の写真が別のものである可能性に思いが至りませんでした。
「新聞の写真がどうした?」

「・・・・人の首が写ってた・・・・・・・気がする・・・」

次回へ続く