ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (32)

第五話「月の石」 その四
日本万国博覧会(大阪万博) 一日目。
「日立グループ館」の40mのエスカレーターで展望室に行き入館しましたが、メイン展示(フライトシミュレーター)は混雑していて観ることを諦め、近くの「みどり館」に並びました。
「みどり館」は360°のスクリーン映像体験ができるアストロラマが人気で、入れ替え制だったので何とか入館できました。
アストロラマは衝撃的でした。言わばプラネタリウムの様な大きなスクリーンに動くカラー映像が映し出されるわけで、今も鮮明に覚えているのは日光のいろは坂の様な場所を疾走する映像。前方から迫ってくるヘアピンカーブ、左右に飛び去っていく紅葉した樹々、振り向けばあっという間に遠ざかって見えなくなる景色。首を動かしながら夢中で観ていました。

「みどり館」を出るとすっかり日が暮れていて、会場内はライトアップされていました。
私はそれを眺めながら、この色とりどりの光の中にまだまだ沢山の未知の世界が隠れているんだと胸を高鳴らせました。

二日目は朝の開場から終日、見て回りました。
「三菱未来館」、「アメリカ館」「ソ連館」、「日本館」などを観覧しましたがそれを記していく前に、1970年に至るまでの日本と、日本を取り巻く国際情勢について振り返ってみたいと思います。

言うまでもなく「冷戦」は続いていました。ベトナム戦争は泥沼化しアメリカでは反戦の声が高まりをみせていきます。前線補給基地と化した沖縄はまだ日本にあらず、返還が叶うのは1972年の事です。
中国はと言うと、日中国交正常化がやはり1972年なので万博は不参加、台湾が「中華民国」の名で参加しています。
数年後に消滅する「南ベトナム」も参加、特筆すべきは「ベルリンの壁未だ健在」の「西ドイツ」と「東ドイツ」が合同で参加していた事でしょうか。

中国で思い出すのは60年代後半に度々行われていた核実験です。
実験直後日本で雨が降ると、「放射能が混ざっているから濡れると禿げるぞ」と冗談めかして言ったものですが、黄砂やpm2.5の飛来を考えると当時が少し怖くなります。

最後に、1970年は日本にとっては「日米安保条約」の自動延長の年で、いわゆる「70年安保闘争」は数年前から存在していました。だだ「60年安保」の景色とはかなり異なり、学生(各大学の全共闘など)が中心の「大学紛争」に明け暮れた68年、69年であった様に記憶しています。

万博開催中、「太陽の塔」が一人の学生運動家に占拠される騒ぎがありましたが、大事には至りませんでした。しかし「よど号ハイジャック事件」が起きたのは万博が開幕して間もなくの事だったのです。

次回へ続く

 

 

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (31)

第五話「月の石」 その三
1970年の夏休み、小学六年生の私は「大阪万博」を体験しました。

「EXPO’70」の文字と桜の花をデザインしたシンボルマークがいたるところに踊っていました。テーマは「人類の進歩と調和」。参加77ヵ国。
前年、GNPが西ドイツを抜いて世界第2位となった日本の、1964年東京オリンピック以来のまさに一大イベントでした。

私は隣県であるという地の利を活かし、大阪の親戚の家に二泊させていただきそこから会場へ通いました。
開幕からすでに四ヶ月余り、どのパビリオンが人気なのか情報は得ていました。ちなみにパビリオンと言うのは展示施設のことで、参加国それぞれの「国際館」と日本国内の各企業が出展した「企業館」がありました。

一日目、移動の時間もあったので会場に入ったのは夕方でした。私と両親は(もちろん一人ではありません。中学生の兄はというと修学旅行で既に体験済みで同行しませんでした。)、いくらか収まりかけた暑さの中、やはりピークは過ぎて収まりかけているであろうたくさんの観客の中を移動します。
「お祭り広場」があり「太陽の塔」が立っています。色とりどり多種多様な建物(パビリオン)。私は明らかに興奮していました。全てのモノを見渡していましたが、その全てにピントが合っていない感じでした。情報量があまりに多くて脳が処理しきれなかったのかもしれません。
「未来の街や‥‥‥」と本気でそう呟きました。

その日観る事ができたパビリオンは二つ。「日立グループ館」と「みどり館」で、いずれも日中なら長い行列ができる評判の企業館でした。
二館は割と近くに立ち、色形はまるで違うのですが、なぜか両方とも「ウルトラセブン」に出てきた侵略者の宇宙船のようだと思いました。

次回へ続く