第五話「月の石」 その四
日本万国博覧会(大阪万博) 一日目。
「日立グループ館」の40mのエスカレーターで展望室に行き入館しましたが、メイン展示(フライトシミュレーター)は混雑していて観ることを諦め、近くの「みどり館」に並びました。
「みどり館」は360°のスクリーン映像体験ができるアストロラマが人気で、入れ替え制だったので何とか入館できました。
アストロラマは衝撃的でした。言わばプラネタリウムの様な大きなスクリーンに動くカラー映像が映し出されるわけで、今も鮮明に覚えているのは日光のいろは坂の様な場所を疾走する映像。前方から迫ってくるヘアピンカーブ、左右に飛び去っていく紅葉した樹々、振り向けばあっという間に遠ざかって見えなくなる景色。首を動かしながら夢中で観ていました。
「みどり館」を出るとすっかり日が暮れていて、会場内はライトアップされていました。
私はそれを眺めながら、この色とりどりの光の中にまだまだ沢山の未知の世界が隠れているんだと胸を高鳴らせました。
二日目は朝の開場から終日、見て回りました。
「三菱未来館」、「アメリカ館」「ソ連館」、「日本館」などを観覧しましたがそれを記していく前に、1970年に至るまでの日本と、日本を取り巻く国際情勢について振り返ってみたいと思います。
言うまでもなく「冷戦」は続いていました。ベトナム戦争は泥沼化しアメリカでは反戦の声が高まりをみせていきます。前線補給基地と化した沖縄はまだ日本にあらず、返還が叶うのは1972年の事です。
中国はと言うと、日中国交正常化がやはり1972年なので万博は不参加、台湾が「中華民国」の名で参加しています。
数年後に消滅する「南ベトナム」も参加、特筆すべきは「ベルリンの壁未だ健在」の「西ドイツ」と「東ドイツ」が合同で参加していた事でしょうか。
中国で思い出すのは60年代後半に度々行われていた核実験です。
実験直後日本で雨が降ると、「放射能が混ざっているから濡れると禿げるぞ」と冗談めかして言ったものですが、黄砂やpm2.5の飛来を考えると当時が少し怖くなります。
最後に、1970年は日本にとっては「日米安保条約」の自動延長の年で、いわゆる「70年安保闘争」は数年前から存在していました。だだ「60年安保」の景色とはかなり異なり、学生(各大学の全共闘など)が中心の「大学紛争」に明け暮れた68年、69年であった様に記憶しています。
万博開催中、「太陽の塔」が一人の学生運動家に占拠される騒ぎがありましたが、大事には至りませんでした。しかし「よど号ハイジャック事件」が起きたのは万博が開幕して間もなくの事だったのです。
次回へ続く